GG二人の利尻・礼文と稚内4日の旅、番外編1

北海道

ももじろうです。

いつもジルがお世話になっております。世帯主で主夫のパートナーです。

 

「老後を豊かにシリーズ」GG二人の利尻・礼文と稚内4日の旅、番外編1

2022年6月22日

 

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日本で最初の英語教師

 

ペリーが浦賀に来る5年前の1848年に日本に来たラナルド・マクドナルド

(父:イギリス人、母:インディアン酋長の娘)の事を、恥ずかしながら

北海道利尻礼文旅行中に知りました。

添付写真は、1996年上陸地である利尻島の野塚に建てられた碑です。

 

当時日本の国策「鎖国」の国禁を犯した罪で幽閉され、本泊港に移送後

松前・江差から長崎に回送され、アメリカ船で送り返らされました。

利尻島郷土資料館解説シート 利尻富士町教育委員会編

<4D6963726F736F667420576F7264202D2089F090E08356815B836781409798904B82CC83418343836B8CEA926E96BC2E646F63> (town.rishirifuji.hokkaido.jp)

 

地図# 現名 読み アイヌ語 意味
中央 利尻 りしり リイシリ 高い島
14 野塚 のずか ノットトマリ 岬についている入江
本泊 もとどまり オトントマリ 浜辺が有る入江
11 鴛泊 おしどまり オスットマリ 根元の入江

日本では古来より港を、津(つ),湊(みなと),泊(とまり)などと称した

アイヌ語も同様のトマリを使うが、古代和人の言葉がアイヌ語に入ったのか

アイヌ語が古代和人後(日本語)に入ったのかは不明。

前回も借用した観光ガイドブックの地図ご覧ください。

添付写真の上左の現在の利尻空港のあるあたりの、本泊(もとどまり)が

当時の拠点港。真ん中の緑色の鴛泊(おしどまり)港は現在でも使用の港

(礼文行きフェリーもここから出る)そして右側の野塚にマクドナルドの碑

 

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吉村昭著「海の祭礼」

 

当時3つのアイヌ種族は(米インディアンや豪アボリジニも)社会組織化

の程度が低かったので社会資本である道路を整備すると言う発想がなく、

【その前に文字を作らなかったのが4大文明や、中東各文明との差】

統治していた松前藩(他東北諸藩)もアイヌから/アイヌに取らせた海産物や

毛皮を収集する為だけに駐留して(冬場寒さが厳しくなると、樺太駐在

含め現北海道中部まで退避:野菜[ビタミン]不足で発病・死者が出る)いた。

(当時の日本人には“エスキモーが生肉を食べてビタミンを取る”知識が無い)

 

松前藩自体も道路整備をしていなかった(松前藩国絵図には注意書き最後に

1里塚は無きに御座候=街道は無い。と記載)為、船以外の方法で犯罪者

マクドナルドを海岸線の岩場の道を使い移送した時は難儀を極めたはず。

これらは全て旅から帰った後、吉村昭著「海の祭礼」で読みました。

私たちの利尻礼文は「ウニの祭礼」でした。これは冗談です

 

先日のアメリカ旅行中にアップした、「アメリカはフランスだった」で

当時アメリカ政府がルイジアナ買収(1803)、テキサス強奪+カリフォルニア

買収、オレゴン買収(1846)、(アラスカもあります)の事を知っていたので、

オレゴン生まれの英国人ハーフ、ラナルド・マクドナルドがアメリカ人に

なって行く様子が良く理解出来ました。

 

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オランダ語から英語への転換に貢献

 

マクドナルドの功績は、短い日本滞在中に、後に日本初の英語通訳となる

オランダ語通訳の森山栄之助に正しい英語発音を教えた事。

 

補足資料:マクドナルド「日本回想記」刀水書房 2012年

幕末の外交官 森山栄之助 弦書房2008年