要支援でリハビリサービスを利用している母、ゴールデンウィーク中も在宅介護サービスがあり、状況を確認することができた。
豊かになる暮らしをお金で賄うことに遠慮する母
母はジルが何かを提案するとすぐにお金が飛んでいくと言う。その理由は未だに自給自足の暮らしが基本となっているからだろう。「それがいきがい」それは確かにそうだ。しかも、人にお願いすることは無料ではない。この頃、支払うお金の事を言わなくなった。
介護サービスを受けようとするとお金がかかる。しかし他人に頼ると言うことはそういうことで、逆にお金で解決できる話になる。話せばわかるのだがこれまでの独立独歩の暮らしぶり、そんな基本を否定されているように感じていたのだろう。そんな誤解は解けたのかもしれない。
他には今でも給与という働くことでお金が入る人と、これしかない。年金暮らし、蓄えで暮らす老親の感覚の違いが理解できてきた。こうして自分達も相手に寄り添えるようになってきたのかもしれない。
母の介護サービス利用での変化
他人が介入するということは、見かけを繕うことでもあるようで、リハビリの日は、自室の掃除は怠らない。家族から見ても、散らかるほどの物のない部屋だがその日は早くから時計を確認しながら、動き出す。「11時に来てくれるから」、と何度も時間を確認しながら準備が始まる。動くたびに「痛い」という独り言よりいいものだ。
自分の身の回り衣服にも気を使うようになった。身支度も早々に済ませて愛用の椅子で待つ。「いつもそこに座っていますね」と言われるらしい。リハビリの方も気が付いてくれればいいと思うのだが、準備を済ませ、担当者を待っているのだ。これは待つ人がいる、予定があると言う楽しみなのだと思いながら観察していた。
よく思われたいのだ。体裁を整える。そんなことすらいつもと違う日常になる。他人の力はすごいと思うのはこのあたりだろう。
こうして他人が介入したことでの母の変化は、いつもの平坦な日々に張り合いのある日ができた。噂話以外の親身な意味のある会話がある。リハビリという目的のある行動により意識への刺激。体裁を整えることだけでも、できるだけ、それをしようとするだけ、これだけでいつもと違う刺激になっている。そんな事を感じてきた。
話の内容も喧嘩腰になることなく表情はずいぶん穏やかになった。自分の苦痛を理解してくれる存在があることが救いになるようだ。そんな苦痛は親として出せないのだろう。だしたくないのだ。娘と話せば親として何か言いたい。それが抑えきれなくなる。互いが嫌な部分をむき出しにする。そんなことを感じずに家族として過ごせた良い休日になった。
訪問リハビリの身体への効果
残念ながら、こうして気持ちは高揚しているし、外的刺激により精神は安定するのだが、運動に身体が付いていかない。傷みで緊張が高まり、リハビリによる緊張緩和より、身体の老化の方が速く進んでしまう様子。機能の改善は難しいこともなんとなくわかってきた。
これで骨折でもしようものなら、どれだけリハビリをしても、確実に寝たきりになるだろう。そんな想像もつく。杖をあつらえて本当によかったと思う。
女性は男性に比べると筋力が低下すると言われるが本当と思う。母の下半身はやせ細り筋肉がないのだ。高齢になる前から、女性は積極的な筋トレが必要だとおもう。
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