チコちゃんに叱られるで出た2月が28日しか無い訳、の捕足説明。7の7 追加の章2

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「老後を豊かにシリーズ」チコちゃんに叱られるで出た2月が28日しか無い訳、の捕足説明。7の7 追加の章2

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塩野七生著「ローマ人の物語」15巻

チコちゃんの説明で、1月が出来た訳として、今で言う3月から12月までしかなかった昔のカレンダーで空白期間の冬場に戦争を始めれば相手が油断しているので勝てる!と言うの聞いて、塩野七生著「ローマ人の物語」15巻を読んでいた私には違和感がありました。

現在のブルガリヤ等ダキアと呼ばれた地域や、EU本部があるフランス・ストラスブール辺りのゲルマンとの戦いは、とても冬場に始められるものではありません。

それは、ローマがまだ帝国と呼ばれる以前の町工場レベルの時の話で、とても帝国(大企業)の時の物ではありません。そんなことを考えていた時ウキぺディアのページで時代別にローマの大きさを表すことができるのを見て皆様にご理解頂くのに最適と思い頂いてまいりました。以下の範図でお勉強下さい。(まずは、藩図=藩地図の意味からかも?)

一口にローマと言っても、現在のイタリア・ローマ市内より小さい、所謂フォノローマーサイズから始まる小さな都市国家が紀元前300年までの400年間続いた。俗に現代のわれわれが言う所のローマ帝国とか何々皇帝と言うのは紀元前44年にカエサルが暗殺された後、紀元前27年のアオグストス皇帝より。
地図の出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』古代ローマ

古代ローマ

フィデナエの戦いは、第三代ローマ王トゥッルス・ホスティリウスの治世、ローマとエトルリア人古代都市フィデナエとウェイイの2都市の戦い。
紀元前7世紀。フィデナエ領内 結果:ローマの勝利
フィデナエ,ローマの北方8キロメートルに位置し、後にローマの都市となった。
ウェイイ, ローマの北北西16kmの地点にあったエトルリア人の重要な古代都市。

これらの俗に言う紀元前753ローマ建国と言う神話の時代より、都市国家であったローマが周辺の都市国家との古代戦争の明け暮れで版図を広げていった一つの都市国家間戦争。

紀元前510年

紀元前320年

紀元前300年

紀元前300年位までは、いわゆる零細企業段階で南はナポリNapoli、北はオルビエトOrvieto
の海岸線から山地は南のルチェラLucera, 北のオルべテッロOrbetello 周辺までがローマ。
紀元前500年(そしてその結果、紀元前450年以前に共和国は設立されなかった)。 ローマは、紀元前625年から500年の間に紀元前2世紀の間に主要都市になったことは間違いありません。 285ヘクタール、推定人口35,000人。 これはそれをイタリアで2番目に大きいものにし(Tarentumに次いで)そして現代のアテネの約半分のサイズ(585ヘクタール、ピレウス社)にした。

紀元前270年

紀元前220年

紀元前190年
紀元前270年辺りから、売り上げにスケールメリットが付いて来て新興市場に上場する感じ。

紀元前140年

紀元前70年

紀元前40年

カエサル(シーザー)がルビコン川を渡った紀元前49年とユリウス暦を定めた前45年過ぎに東証2部から1部に昇格していく感じ。ブルータルのカエサル暗殺は前44年

西暦20年

西暦70年

西暦117年
エジプトのプトレマイオス朝は紀元前30年に滅ぼされ、エジプトは帝国の属州(ローマの食糧庫)となった。オクタウィアヌス(アウグストゥス皇帝)の時代から本格的に統治の形態が、「多民族・多人種・多宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家」という意味での帝国領土を拡大しイタリア本土出身者でない、初の属州生まれの皇帝トラヤヌスの治世下、西暦117年にローマ帝国が最大版図を実現した。

西暦140年

西暦230年

西暦300年

ローマ帝国の支配下では、被征服者1)属州となり重税を払う。2)自治をするための冥加金をローマに払う。どちらにしても被征服者たちは、『平和』を金で買う形でした。60年/61年英国ワトリング街道の戦いは、2)の自治の中での派遣されたローマ行政官他の横暴の結果も有りここはローマ側に非が有ると思います。ローマ帝国に対する批判、非難は事実も含め一杯されていますが、トータルで見た時歴史的事実として、民族の違い、文化の違い、宗教の違いを認めた上で、それらをすべて包み込む「普遍大帝国」を打ち立てることができたのは世界史の中でローマ人のみと言う塩野七海氏の意見には一目も二目も置く必要があると思います。

西暦360年

西暦406年、東西分裂後

西暦420年
西暦117年の最大領域より278年後の西暦395年に東西ローマに分裂。ポドゴリツァ(Podgorica), モンテネグロ(Montenegro)東経19度16分を東西の分割線とした(らしい)。
モンテネグロの英語Webにも地図出ます。以降、西ローマは衰退の一途をたどることになる。

西暦450年

西暦480年

西暦530年

西ローマ帝国の皇帝政権は経済的、軍事的基盤が弱く、ゲルマン人の侵入に抗せず、
ゲルマン人傭兵オドアケルの反乱により西ローマ帝国が実質滅亡。(480年に完全に滅亡)
東ローマ帝国は西ローマ滅亡後も長く存続したが、1453年5月29日、オスマン帝国のメフメト2世によって首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)が陥落し滅亡

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追記

追記:カエサル(シーザー)がブルータス一味に暗殺された日は、紀元前44年3月15日ユリウス暦となっておりますが、現在のグレゴリオ暦に換算しなおすと、紀元前44年3月13日(今年2018年日本ではその日は、友引)だそうです