ももじろうです。 いつもジルがお世話になっております。
世帯主で主夫のパートナーです。
チコちゃんで出た紙のサイズ(A4やB5等)補足説明 20230320
日本人にしっくりこなかったから
3月のチコちゃんに叱られるで、出た
なぜ紙の大きさにはAとBがあるの?
の回答が『Aだけだと日本人にしっくりこなかったから』
日本で使われている紙は、A判・B判という2種類が標準です。
AB共にJIS規格(日本工業規格)で正確なサイズが定められています。
A判は国際標準規格(ISO216)でもあり、B判は江戸時代の公用紙
である美濃紙の寸法を基に作られた日本古来のローカル規格です。
ISOには他にBとC(A版を入れる封筒用)に使用目的不明のD判が
有りますが、ISOのB判と日本のB判とは微妙に違いがあります。
JISのB判は、殆ど日本・中国・台湾の三地域のみで使われています。
米国とカナダは他の国とまったく違い、ANSI として知られる紙の規格を
使用しています。彼らは最も一般的なサイズとして「リーガル」と
「レター」(A4に類似)と呼ばれる別の寸法を使用しています。
チコちゃんの回答は正しい
しっくりこなかったのは、日本人だけでなく英国他も同じでそれぞれの国で
本専用のサイズを今も使っています。
英国では、A4 は大きすぎ、A5 は小さすぎるため、A サイズは使用されない
ことがよくあります。 Metric Royal Octavo と Metric Crown Quarto と言う、
持ちやすく読みやすい 2 つのサイズが頻繁に使用されています。
幅(mm)高さ 該当日本サイズ
Metric Royal Octavo 129 198 ≒ 四六判
Metric Crown Quarto 189 246 ≒ B5判
本のサイズまとめ 【判型一覧あり】 | ブクログ通信 (booklog.jp)
から拝借すると以下の通りです。
学校で習った紙は蔡倫が発明は、現代では??
ネットでググると次のような記事にあたりました。
漢王朝の中国の宮廷官吏蔡倫 (c. 50–121 CE) は、西暦105年 に
レイヤン ( 耒陽〔市〕Leiyang湖南省南東部の市。漢代から南北
交通の要地) で最初に紙を作った、ぼろ布や他の植物繊維を使用した
製紙方法の発明者として認められています。
しかし、2006 年に中国北東部の甘粛省の天水近くにある
秦(しん)の遺跡 放馬灘Fangmatan で漢字が書かれた紙の標本が
発見されたことは、紙が古代中国軍によって 100 年以上前、
紀元前 8 世紀に使用されていたことを示唆しています。
放馬灘Fangmatan 第5墓サイトで発見された断片は、紀元前
2 世紀初頭のものです。
したがって、「蔡倫の貢献は、この技術を体系的かつ科学的に改善し、
製紙のレシピを修正することであった」と思われます。
中国中部で発祥した後、紙の生産と使用は着実に広がりました。
敦煌では西暦 150 年までに、現在の新疆楼蘭では 200 年までに、
トルファンでは 399 年までに紙が使用されていたことが明らかです。
紙は、同時に 280 年から 610 年の間に日本に導入されました。
紙は西暦 3 世紀まで文字を書くために使用されていましたが、
紙は包装 (およびその他) の目的でも引き続き使用されていました
トイレットペーパーは、6 世紀後半頃から中国で使用されていました。
6 世紀までにパキスタンのギルギットで、751 年までにサマルカンド、
793 年までにバグダッド、900 年までにエジプト、そして 1100 年頃に
モロッコのフェズ、シリアなどで紙が作られたという記録があるそうです。
で、規格化される前までは“製造者とお客”それぞれが勝手にサイズを
きめて作っておりました。
主な用途は、宗教と王家の記録・法律でした。紙の生産が増えるに従い
手紙等個人的な用途も増えました。一番の理由はコストが下がったから。
こうして紙のサイズが決まった
標準または均一の用紙サイズを使用すれば、コストと時間を節約しながら
プロセスが簡素化されます。
したがって、たとえば、すべての書籍・雑誌が ISO 形式に準拠していれば、
出版された資料の配布、ファイリング、保管が大幅に簡素化されます。
そうすれば図書館の棚は、多様な高さのサイズなしでそれらを
正確に収めるように設計されます。もちろん例外もありますが、、、。
「紙の標準化」の最初の例は、
1961 年にオランダの国際製紙産業歴史家会議によって、
1398 年のボローニャ法がそれとして認められ
大理石のタブレットがボローニャに置かれました。
ボローニャと地区で製造されなければならない紙のサイズに
対応するボローニャのコミュニティは、サイズを以下に示して
レキュート(315mm×450mm)、
メカン(345mm×515mm)、
レアレ(445mm×615mm)、
インペリアル(500mm×740mm)。
ドイツのそれが一番合理的だった
ドイツ生の実験物理学者ゲオルク・リヒテンベルク教授は、紙の
サイズを体系化するための解決策を最初に提案した人物の 1 人でした。
リヒテンベルクLichtenberg は、正方形の一辺とその対角線のように、
2 の平方根の縦横比に基づいて用紙サイズを設定すると、スケーリングが
容易になると考えました。
彼はこの素晴らしいアイデアを多くの未発表のエッセイの 1 つに記録し、
後に 1786 年に友人のヨハン ベックマンに宛てた手紙に記録しました。
1920 年代、ドイツ経済が第1次世界大戦の敗戦国としての巨額の債務
で苦戦していたとき、ウォルター ポルストマン博士はリヒテンベルグの
アイデアを再検討し、メートル法による面積測定を組み合わせました。
基本的な A0判サイズ フォーマットの面積は1 平方メートルです。
ポーストマンの業績は、ドイツ標準化協会 (DIN) の承認を得て、
DIN 476 規格として知られるようになりました。
この形式は、敵国の規格でしたが第二次世界大戦中からも、そして
第二次世界大戦後に世界中で広く使用されるようになり1975 年に
国際標準 (ISO 216) 紙の規格として DIN 476 が採用されました。
アメリカは紙の規格化で別の道をたどった
それは第一次世界大戦中に始まり、1921 年ドーズ将軍は印刷に関する
常設会議を設立し、政府の印刷に 8×10.5 規格を採用しました。
同時に、用紙サイズの簡素化に関する委員会は、フーバー大統領の
産業政策における無駄の排除の一環として、標準局と協力していました。
彼らはコマーシャル ペーパーの使用をより代表しており、8.5×11 の
標準フォーマットを推奨しました。
これは、コストを削減し、必要な在庫を削減する試みでもありました。
この 2 つのグループは 20 代前半に互いのことを知りましたが、
どちらのフォーマットを採用するかについて意見が一致しませんでした。
1980 年代にレーガン大統領は政府の論文を 8.5×11 に標準化しました。
コメント