GG二人の小笠原・父島行き、その3-2木曜日

小笠原・父島

GG二人の小笠原・父島行き、その3-2木曜日
中央山展望台までたどり着いた。

スポンサーリンク

中央山展望台までたどり着き慰められる

道路沿いの入口から山頂まで道すがら、降りてきたツアーご一行の人から「よくたどり着いたね!」と慰められました。
我々が、あご出してヘロヘロ状態で山道を自転車押して上がっていたのを車からしっかり見られていたのでした。

「ハワイはこちらの方向」と言う、余所の父島自然観光ツアーガイドさんの声がとても印象的な山頂でした。こちらは、ここまでの輪行(ほとんどの行程が押して上がった輪行でした)がもう大仕事を成し遂げた達成感で満足の境地に浸って周囲を見廻しておりました。

これは、山頂に残る戦争時代の遺物「灯光器残骸」です。

宇宙開発事業団まで

中央山からはほぼ下り状態で、宇宙開発事業団(入口が厳重に閉められていた)まで、ラクチンでしたが、また上りになりまたもや押して進む状況に・・。

何とか国立天文台の電波望遠鏡まで到着

 

何とか国立天文台の電波望遠鏡まで到着。ここは入口が開いており、どなたでもお入り下さい状態でしたので、入って行って、事務所でお願いし水筒に水を分けてもらいました。御親切に冷たい水を頂けて、生き還りました。

電波望遠鏡の解説を読んでいた時に、サービスなのか判りませんが、望遠鏡が動き、丁度ミニバスで来ていたツアーの皆さんと一緒になって大喜びの我々でした。

当たり前のことですが、楽々と動くのです。しかもパラボラの裏側の、人が入れる小屋には冷房までついていて至れるつくせりでした。

岩手県・水沢、沖縄県・石垣島、鹿児島県・入来、とここ小笠原の4か所で同時に観測すると2,300Kmの望遠鏡と同じ性能となるというのを読んで素人達はただただ感心するばかり。

その後、旭平展望台、長崎展望台へはほとんど下りで、其の後も下り坂は急になり、 正平さんではないですが

「人生下り坂サイコー!」

ですごいスピードで下ってきたら、地図には無かった、1861年12月19日(文久元年)に咸臨丸で来たが島で亡くなった西川倍太郎他の墓が有った。

スポンサーリンク

西川倍太郎他の墓


この時の調査並びに既に小笠原に居住していた欧米系住民との交渉結果・調査活動が、明治9年に小笠原が正式に日本領として認められる根拠となったのだけでなく、第二次大戦後のアメリカによる日本統治の国務省・国防省と大統領と日本進駐米軍のマッカーサーによる小笠原・硫黄島と奄美・沖縄諸島の取り扱い協議の中で【知っていますか?マッカーサーは沖縄も、小笠原も返す気がなかったことを】「暴力によって」日本の領土に組み入れられた訳でないことが返還の根拠1つとなり、現在、小笠原が東京都小笠原村であることの元になった大事な航海だった。咸臨丸に江戸(東京)から同行し欧米系住民との交渉で活躍したのは、少年時代に高知沖で漁をしていて、東京から小笠原島への途中にある鳥島に流された後、アメリカの捕鯨船に救助されアメリカで英語を取得した後に沖縄経由で帰国していた中浜(ジョン)万次郎。

この後も、続く急な下りを「人生下り坂サイコー」のでんで、駆け下りて行ったGG二人でした。 父島一周自転車の旅。おわり。