73歳、ペルー、インカ・トレッキングとマチュピチュの旅【外伝】マチュピチュを発見したのはだれ 20241011

ペルー、インカトレッキングとマチュピチュの旅

ももじろうです。いつもジルがお世話になっております。

73歳、ペルー、インカ・トレッキングとマチュピチュの旅【外伝】マチュピチュを発見したのはだれ 20241011

 

 

3泊4日のインカ・トレッキングが終わり、マチュピチュを見て、

マチュピチュ村(旧アグアスカリエンテス)からペルーレイルで

オリャンタイタンボ駅まできて迎えの自動車(スズキのマニュアル車)で

クスコに戻り、翌日夜帰国の途に就く前に今回のツアー、ペルー現地

代理店MICKEY Tour 社が1人旅行者のももじを、クスコ市内のインカの

史跡を巡る3時間ツアーにつれて行ってくれました。

 

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観光地で売っているガイドブックとしてロメロ氏のは極めて優秀だった

 

3時間ツアーの最後、市内のコリカンチャ(クスコの太陽神殿)を見て表へ

出てきた時、妙齢の婦人が、ガイドさんに近づき何か言いました。

ガイドさんが通訳してくれました『この本を買ってほしいそうです』

普通、観光地で売りに来るこの手のガイド本、ローマ・コロッセオ前で

『千円!千円!』と売りに来たお兄さんたちのは、写真も古くとても買える

品でなかったようにダメでしたが、手に取ってパラパラと中を見てみると、

内容豊富で写真の質も良く『買った!』といいました。300ソル=持金全部

 

クスコの国立大学観光学部を出て、25年以上スペイン語、フランス語、日本語

のオフィシャル観光ガイドをしているサイディ・マリア・ネグロン・ロメロ氏

が書いたものを、波田典亮(のりあき)氏が翻訳したペルー印刷のそれでした。

日本での販売はなく、過去オークションに数回出たことがありました。

 

それによると、マチュピチュを発見したのは、、、。

P130

P131

 

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クスコ(ペルー)の人々にとってマチュピチュは特別な場所

 

ビンガム3世はマチュピチュについて精神世界的なことを考えませんでしたが、

クスコの人々にとってのマチュピチュは、まったく異なる感情で語られます。

彼らはインカ・トレイルの山々とマチュピチュを、偉大なるインカの遺産と

アンデスの山々に抱かれたペルー人としての自分たちのアイデンティティの

象徴と見なし畏敬の念を持っているから。

 

ももじがそれを思ったのは、ロメロ氏のガイドブックをコリカンチャで買う前

に訪れた、Q’enqo (ケチュア語のq’inquの発音はジグザグの意味、クスコ

から北へ6kmのところにあるインカの聖域のひとつ。標高3,580m)の入口で

その時は他に訪れる客もなく暇していた、観光客相手に土産物を売っている

インディオのおば様たちに、ツアーガイドのこちらもおば様が(それまで他の

場所では、ただ単に『オラ!(こんにちわ)』と挨拶するだけだったのに)

Q’enqoでは突然

『こちらは、インカ・トレッキングしてマチュピチュに行って来た人だよ!』

と1人しかいないお客の私のことを紹介?した時居並ぶインディオのおば様たち

の目に、彼らの心にある聖地巡礼に行った来た人に対するを親近感を感じました。

まさしく、Camino Inka インカ巡礼

Qenqo Archaeological Complex | (cuscoperu.com)

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ビンガム3世はアメリカの国力によりマチュピチュを世界に紹介出来た

 

マチュピチュは英米独仏が学術・文化・芸術・外交を牛耳っていた時代に

ビンガム3世により彼らの世界に紹介された。

(1914年からの第一次世界大戦もアメリカは戦場にもならずに儲けるばかり)

 

ビンガム3世が常にカメラを携帯し、2 回目と 3 回目の探検 (1912 年と

1915 ~ 1916 年) ではナショナル ジオグラフィック協会が彼を支え、

Nジオグラフィックは 1913 年 4 月号全体をマチュピチュに充てました。

 

 

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リサラガのマチュピチュ遺跡発見が認められなかった理由

 

マチュピチュ遺跡群を最初に発見したクスコ出身のアグスティン・リサラガは、

1902年に彼はこの遺跡を発見しましたが、当時はペルー政府の世界に知らせる

力もなく、支援も得られなかったため、世界に知らせることが出来ませんでした。

 

1902年7月14日、マチュピチュに到達したアグスティン・リサラガ

2002 年、元クスコ市長ダニエル・エストラーダは、国民を代表して

アグスティン・リサラガ、

ガビノ・サンチェス、

フスト・オチョア、

エンリケ・パルマの4人をマチュピチュ発見者として公式に認定するよう

求める動議を議会に提出した。

 

2011 年 7 月、マチュ ピチュの科学的発見 100 周年を記念して、クスコ市は

アグスティン・リサラガに彼の「マチュピチュ遺跡の発見に対する功績と貢献」

にマチュピチュ百年勲章を授与

 

アグスティン・リサラガの物語は、探検や発見には、誰よりも土地をよく知る

地元の人々が関わることが多いことを思い出させてくれます。彼の役割はそれ

ほど称賛されていませんが、マチュピチュの発見への彼の貢献は否定できません。

 

 

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マチュピチュはインカ皇帝の別荘

 

マチュピチュは皇帝パチャクティ(1438年から1472年まで統治)の邸宅として

建てられたと考えられています。それはおそらく、権力を握っていたインカ皇帝

の王室の別荘として建てられたと考えられている。

マチュピチュはスペイン人と接触した後すぐに放棄されたと考えられます。

期間:1420年頃から1532年頃

目的:おそらく王室の邸宅と王室の別荘

 

 

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文字が無いインカだったからこそ、マチュピチュの存在が知られずに済んだ

 

マチュピチュは王室の別荘だった為に、一般の人々にはその存在が知られて

おらず、一部上流階級とその従者たちだけが知っていたので存在が隠された。

スペインの征服者たちはマチュピチュを見ることはなく、したがってそれについ

て書くこともなかった。ビンガム3世より前に数人の西洋人がマチュピチュを

見た(行った)が、それを世界に公開したのは彼であり、それが彼を有名にした。

 

トレッキング【4.3】でもご案内した通り、マチュピチュ周辺は

アマゾンに繋がる熱帯雨林の一部 PHUYPATAMARKA 3,601m

マチュピチュを取り巻く雲霧林は成長が早く、手入れを怠る/しないと

直ぐにジャングル化します。

1911年にビンガム3世が見たマチュピチュはまさしくそれでした。

 

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ビンガム3世を包括的に俯瞰したクリストファー・ヒーニーの『黄金のゆりかご』

ビンガム3世のペルー各地での発見とその後を綴ったクリストファー・ヒーニー

の『黄金のゆりかご』は、ペルーのアンデス山脈の東斜面の奥深くに位置する

3つの都市、ビトコス、ビルカバンバ、マチュピチュを旅し、その存在を明ら

かにした人々の、素晴らしく感動的な物語。

 

ペルーにおけるスペイン人の残酷で無慈悲な歴史をも対比させて描いた。

また、20世紀初頭の米国考古学の帝国主義的傲慢さを、エール大学における

ペルー「古代遺物」コレクションの起源・来歴をたどりながら、現在も続いて

いるペルー政府とエール大学のマチュピチュの埋葬地と遺物の所有権をめぐる

論争におけるビンガム3世の役割を巧みに解明している。

 

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ビンガム3世、トレジャーハンターの彼の真の目的は、インカの黄金

 

ハイラム・ビンガム3世が1911年7月24日に初めてマチュピチュに到着した時

トレジャーハンターの彼の真の目的は、インカ最後の黄金の首都だと言われた

ビルカバンバを見つけることだった。

1909年、ビンガム3世は南米の歴史的な貿易ルートを探検し、ブエノスアイレス

からペルーのリマまで古いルートをたどり、クスコに向かった。

1911年、彼はペルーへの小さな探検隊を率いて「失われた都市」ビルカバンバ

を捜索した。

ビンガム3世と7人の仲間はクスコに行き、そこからラバと徒歩でアグアス・カリ

エンテス近くのマンドール・パンパという小さな集落に向かい、そこで地元の

農民メルチョル・アルテアガに出会った。アルテアガは、ビンガム3世の通訳

警官を通じて、近くの山の高いところに、アルテアガが母国語のケチュア語で

「古い山」を意味するマチュピチュと呼んでいた場所に、広大な遺跡がある

ことを彼に伝えた。

 

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ビンガム3世と彼の同僚たちはこうしてマチュピチュにたどり着いた

 

翌朝、彼らはしとしとと降る小雨の中、遺跡まで、2時間かけて疲れ果てて

山を登った。彼は何か特別なものを発見したと感じた。その遺跡はほぼ完全に

ジャングルに覆われていたが、ビンガム3世と彼の同僚たちはまだ密生した

植物の間に細かい石造物を垣間見ることができ、また、時折小さな空き地から

明らかに重要な建物が姿を現した。

 

1913年4月発行のナショナル ジオグラフィック誌に最初に掲載された記事で、

ビンガム3世は第一印象について次のように書いた。

「石造物の優れた特徴、これらの素晴らしい建造物の存在、そして非常に多数の

細かく造られた石造の住居から、私はマチュピチュがスペインの征服の時代以来

南米で発見された最大かつ最も重要な遺跡である可能性があると確信しました。」

しかし、マチュピチュの規模と重要性の真の姿を把握するために、ビンガム3世の

チームはまず遺跡の整備を開始しなければなりませんでした。

「私は、1911 年の探検隊の技師である H. L. タッカー氏と助手である

ポール・バクスター・ラニウス氏と共に、マチュピチュに行って 3 週間過ごし、

遺跡を部分的に片付け、彼らが使える時間で可能な限りの地図を作成するよう

依頼しました。」こうして、マチュピチュの発掘と科学的再発見が始まった。

 

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マチュピチュを覆ったジャングル伐採という難題

 

ビンガム3世と彼のチームは、ペルー軍のトマス・ソトマイヨール中尉の助けを

借りて、最初の 4 か月間をマチュピチュの植生の伐採に費やした。

ソトマイヨール中尉は「ジャングルの伐採とゴミの乾燥と焼却に従事する

インディアンの一団を個人的に指揮した。」

 

ビンガム3世を苛立たせた 1 つの問題は、今日のマチュピチュの守護者たちを

苛立たせるのと同じように、落書きだった。

ビンガム3世によると、1 人の作業員が美しい花崗岩の壁から、訪問したペルー

人(アグスティン・リサラガ)の粗雑な木炭のサインを消すのに 2 日かかった。

ビンガム3世は、これらの訪問したペルー人(アグスティン・リサラガ)が

自分の到着より前にマチュピチュに到着したのか、後に到着したのかについて

は言及を避けています。落書きを消すことは、ジャングルにどんどん侵入して

くる蔓や木々に比べれば小さな問題でした。

 

ジャングルの蔓や木々を撤去するのは複雑な作業で、困難にもかかわらず、

ビンガム3世の部下はマチュピチュにおいてジャングルの蔓や木々の撤去と

埋もれていた遺跡の発掘を徹底的かつ非常に精力的に行った。

1912 年のペルー遠征の終わりまでに、大規模な伐採作業によって巨大な遺跡

が発見され、ビンガム3世はマチュピチュの写真を撮影することができました。

その写真は、現在私たちが目にする遺跡とあまり変わらないものでしたが、(現

在、我々が現地で見るマチュピチュは1912年の遺跡に2割修復を加えたもの)

観光客がまったくいません。

 

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1915年、3度目の探検でジャングルに戻ったマチュピチュを発見

 

しかし、1915 年にマチュピチュに戻ったビンガム3世は、落胆させられるような

光景に直面しました。インカの要塞は再びジャングルに覆われていたのです。

「ジャングルと茂みに戻っていたのを見て、私は泣きそうになりました」

 

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ペルーでは、ビンガム3世氏を「マチュピチュの科学的発見者」と呼ぶ

 

ハイラム・ビンガム3世が遺跡の「発見者」であるかどうかは議論の的と

なっており、ペルー政府はビンガム3世が教鞭をとっていたイェール大学に、

彼がインカの地から持ち帰ったすべての遺物を返還するよう要求している。

 

現在ペルーの考古学者たちは、彼が15世紀のインカの都市の遺跡を発見した

最初の部外者ではなかったと主張している。彼は当然のことながらそのことを

知っているはずだ。「ドイツ、イギリス、アメリカの探検家が何人か存在し、

地図を作成していたことは知られている」とペルーの人類学者

ホルヘ・フローレス・オチョアは言う。

もし他の者が訪れたとしても、略奪に来たか、その遺跡の重要性を認識して

いなかったかのどちらかだと同氏は言う。さらに同氏は、ビンガム3世氏は

「マチュピチュに足を踏み入れた最初の現代人であると主張したことは一度も

ない」と付け加える。

 

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ビルカバンバは1530年代にスペインの征服者と戦ったインカのマンコ・カパック2世の最後の隠れ家だった

 

ビンガム3世はビルカバンバを発見したと確信していた。

彼は生涯そのことを信じていたが、結局それは最終的には間違いだった。

現在では、間違いでなく1911年の数年後ビンガム3世が意思を入れて、

彼の著書『インカの失われた都市』の中で、エスピリトゥ・パンパ(消滅した

都市ビルカバンバの現代名)へと導いた地理的な手がかりをすべて無視し、証拠

をねじ曲げてマチュピチュは実は伝説の都市ビルカバンバであるとした由

1956年の彼の死後、それが間違いだったことが証明された。

真のビルカバンバは、マチュピチュから約80km西のジャングルの中にある

本当のビルカバンバは1964年に別のアメリカ人探検家、

ジーン・サボイによって発見された

 

「黄金のゆりかご」日本で出版されていません。英語ペーパーバックスが

こちらなどで買えます。

 

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そして、そのビルカバンバの場所はこの高野淳「インカを歩く」の地図で

 

探険家の歴史 第2部 アマゾン河の旅 その8 秘都ビルカバンバまで: 釣り師ジュンチャン+ツーリングワゴン (seesaa.net)

図:高野淳「インカを歩く」から

高野淳「インカを歩く」は図書館で借りられます

 

まとめ、ハイラム・ビンガム3世は奥さんの家のお金を使い、

インカの黄金を探しにいってマチュピチュを世界に発表し、

彼自身が有名人になった。ややこやしい事は全て伏せた。