La Flecha 矢印
ももじろうです。いつもジルがお世話になっております。
サンティアゴ巡礼 外伝1 黄色い矢印 20230913
中世に起源を持つ物のでは無いが、20世紀末頃からのサンティアゴ巡礼の
大ブームの象徴である、その街へ行きつくための非常に特徴的な
黄色い矢印
についてお話します。
2020年に続き2023年3月にNHKが放映した
サンティアゴ巡礼(今回は、モサラべ~銀の道~原始の道)
8月初めと末(こちらは編集版15分×5日間)にも
再放送が有りました。
何故わかる?かとお尋ねの貴兄!
新聞のラテ(ラジオ・テレビ)欄からではありません。
放映が有ると、ももじの2つのブログ記事
NHK放映 聖なる巡礼路を行く~カミーノ・デ・サンティアゴ1500Km~ 2023年放映 第Ⅱシリーズを倍楽しむための補足説明 20230218
の来訪者数が記録的に伸びるからです。
8末の編集版(BS朝7:45~8:00)には本番組の案内人マドリッドに
住むグラフィックデザイナー篠原勇治さん、映像には出てきますが、
主体ではありませんでした。
最後9月1日放映では、本編では(カットされた?)なかった
現代の巡礼には欠かせない、“黄色い矢印”の話が今ご存命の矢印
(当時は青年だった)ペンキ塗り担当者の話を交えてありました。
3月放映本編には、この話無かったと思い、録画してあったソレで
確認しましたが、確かに本編では紹介されていませんでした。
で、本日のお話です。いつものことですが前振りが長くてスイマセン。
黄色い矢印の出来た理由(わけ)?
サンティアゴの矢、サンティアゴ巡礼の大部分は、サンティアゴの矢と
しても知られる、特徴的な黄色の矢印でほとんどが標識されています。
黄色い矢印を見つけることができる場所は一杯あります:
地面、木の幹、石、岩、そしてさらには家のファサードに描かれた
黄色い矢印を見つけるのが一般的です。
サンティアゴ巡礼の矢の起源は、他の2つのシンボル(ホタテ貝または
サンティアゴの十字架)のように中世にさか戻るのではなく、
コンポステーラへ約151Kmにある、レオン州とガリシア州の境の街
オ・セブレイロの村で働いていた司祭であるエリアス・ヴァリーニャ
その人でした。
この村の詳しい話は、実際に訪れた、吉田さんの下記記事で・・。
『巡礼路最古の教会が残っている峠の村、オ・セブレイロ』ガリーシア地方(スペイン)の旅行記・ブログ by Masakatsu Yoshidaさん【フォートラベル】 (4travel.jp)
オ・セブレイロ入口の標石
巡礼はインバウンドの経済効果狙いもあった
中世、コンポステーラへの巡礼初期には、多くの巡礼者の命が山で
失われました。多くの人が巡礼の道中道に迷い使徒サンティアゴの墓に
たどり着く前に亡くなりました。笑えない事実。
時代の経過とともに、巡礼ルートが統合されるにつれて、巡礼者の
ルートを容易にするために、十字架と石の塚を備えた標識が導入され
始めました。先の、吉田さんの記事にある写真のがソレの一つ。
この標識は春夏秋の暖かい季節には役に立ちましたが冬の間は、
サンティアゴ巡礼を示すために前の歩行者が立てた標識の多くは雪で
覆われていました。
黄色い矢の歴史
カミノ・ディ・サンティアゴの黄色い矢印の起源は1984年にさかのぼります。
その作成者は、オ・セブレイロの教区司祭であるエリアス・ヴァリーニャでした。
彼は教会法を研究しており、カミノサンティアゴに関する博士論文も
書いていました。
材料の黄色いペンキは「買った」と「貰った」の2説あり
サンティアゴ行きの黄色い矢は、エリアス・ヴァリーニャが黄色の
ペンキで、ガリシアの国境からコンポステーラの街まで描き始めた
1984年以降に、カミーノの多くの場所で表現され始めました。
1987年、サンティアゴ巡礼がヨーロッパの文化旅程として宣言された
ことで、エリアスが行った作業が看板の参照として採用されました。
こうして、すべての巡礼ルートが黄色の矢印でマークされ始めました。
1989年、エリアス・ヴァリーニャは60歳で亡くなりましたが死ぬ前に、
彼は最後の意志として、サンティアゴ巡礼のガイダンスのしるしとして
黄色い矢印を失わないように親戚に頼みました。
彼の友人達とサンティアゴ巡礼の友の会は、その多くが彼の手から
生まれ、彼の最後の願いを叶える責任を負ったものでした。
このために彼らは消された黄色い矢を強化し、
ガリシアの国境を越えてサンティアゴの矢を描いています。
矢印の黄色(購入説)
彼らは、矢印の黄色は偶然の結果であると言います。彼の家族や友人に
よると、ある日、エリアス・ヴァリーニャは道路に看板を描いている
労働者のグループを見つけ、彼らはたくさんのペンキを残していました。
オ・セブレイロの教区司祭は、サンティアゴ巡礼の目印を始めるために、
残りのペンキを彼らから買うことを躊躇しませんでした。
しかし、エリアス・ヴァリーニャはよく検討しなかったことを指摘する
人もいます。彼らは彼が黄色を選んだと言います。
フランスでは、山岳ルートを示すために使用される色だったからです。
また、黄色は多くの注目を集め、時間の経過に耐えることができた色でした。
エリアスは、オ・セブレイロの近くにあるカミノ・ディ・サンティアゴの
標識から仕事を始めました。しかし、彼が終わったとき、彼はまだ
たくさんのペンキが残っていることに気づきました。と言う理由で
彼は(巡礼)フランス人の道全体のサンティアゴへの目印造りを続けました。
カミノ・ディ・サンティアゴを示すために描かれた最初の黄色の矢印は、
オ・セブレイロの近くにあります。
ある日、市民警備隊はルート目印造りしている、
エリアス・ヴァリーニャに出会ったと彼らは言います。
黄色い矢印に興味をもって、テロリストへのルート造りをしているの
ではないかと疑って、彼らは教区司祭にそれらの黄色い矢印の
目的が何であるかを尋ねました。
エリアス・ヴァリーニャの答えは:
「私は侵略(巡礼)を準備しています」
なかなかジョークがお上手な神父さんです。
サンティアゴ巡礼の標識の統合と悪用
サンティアゴ巡礼への標識の組み込みは、多くのコミュニケーションと
普及の取り組み、およびインフラストラクチャの適応とともに、
1993年のシャコベオを成功させました。
(シャコベオ年またはコンポステーラの聖年は、7月25日が日曜日に
(あたる年に挙行されます。聖年の伝統においては、たとえば
(サンティアゴ大聖堂に聖門をくぐって入ることができるといった、
(いくつかの特例が認められる。
これにより、サンティアゴ巡礼の兆候のネットワークが統合されました。
2018年、ジャコビアン評議会は、サンティアゴ巡礼を知らせるシンボル
として、ホタテ貝の殻とともに黄色の矢印のみを使用するように命じました。
また、サンティアゴ巡礼のレストラン、ショップ、宿泊施設は、
黄色の矢印を使用して場所を示すことを禁じられていました。
しかし、今日、多くの企業は、巡礼者を彼らのドアに誘い込むために、
黄色い矢印もどきの印を使用しています。
コンポステーラの大聖堂で、巡礼証明書(コンポステーラ)貰ったら
フィニステレへのサンティアゴ巡礼路(聖ヤコブの道)は、サンティアゴ
から約5日間でフィニステレへの「フィニステレ通り」(スペイン語で
「エル・カミーノ・デ・フィニステレ」)をたどって大西洋岸をたどる
唯一のルートです。 世界の終わりの旅。
フィニステレ巡礼路はキリスト教そのものよりも古く、
原始的宗教徒がコスタ・ダ・モルテ川のフィニステレに向かい、
太陽が消えて光と闇の世界が一つになると信じていたそうです。
原始的宗教徒たちが祈り、神に感謝の捧げ物をしたのは、
まさに太陽が死んだその瞬間でした。
=====================
*追記 サンティアゴからフィニステレへ行く道の“矢印”がどちら向きか
気になり、サンティアゴ友の会に聞いた回答です。一安心
差出人: ももじろう
題名: サンティアゴまでの矢印とフィニステレへのサンティアゴ巡礼路
メッセージ本文:
フィニステレへのサンティアゴ巡礼路には、黄色い矢印があるのでしょうか?
その矢印は、「コンポステーラはこちら」と言う様に
大聖堂に向けての物か?
「フィニステレへはこちら」と言う様に
海に向けての物か?
それともどちらでもなく、ここには矢印が無い!
のでしょうか?その時の目印は何?になりますか?
以下回答
ももじろう様
お問い合わせありがとうございます。
Muxia/Fisterraへの道への矢印はMuxia/Fisterraへ向かい、途中のHospitalというところで、Muxiaへ向かう道と
Fisterraへ向かう道に分かれます。いずれの道を通ってもFisterraに行くことができます。
矢印(矢印のついたモホン)はわかりやすく設置されています。
以上どうぞよろしくお願い致します。
日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会
======================
フィニステレに到着後には、ムシア(Gマップ表記はムヒア)の
ヴィルクセ デ バルカ聖地へのルートを続けます。
(ムシアのヴィルクセ ダ バルカは、マリアが石の船で到着したと
(言われている場所の近くに建てられています。
(この神話はガリシアで繰り返される神話であり、アイルランドと
(ブルターニュにも存在します。これらの遺跡の多くは、おそらく
(異教のカルトの遺跡の上に建設されたと考えられます。
ここも、大西洋に面したもう 1 つの伝統的な巡礼地です。
どうですか?皆様もいつの日か、行って見たいと思いませんか?
本日は長い記事をお読みいただき有難うございます。ももじろう敬白
コメント