イタリアのフレンツェがお気に入りの都市。観光も印象も変化している。

イタリア

フィレンツェが気に入り何度か観光旅行に来ている。

1993年

1993年は年末 初めてのイタリア旅行。記憶に残るのは石畳に響くハイヒールの音。冬場のフレンツエは外は寒い空はグレーだ。ローマからフィレンツェに移動してきたのだが寒いこの時期、美術館巡りをしていた。そのうちに冬の薄暗さと寒さ、寂しそうな顔をした宗教画の暗さが一体化してしまいこれ以上は絵は見れないと感じたのだった。そんな中でサンマルコ寺院の受胎告知は安らいだ。

1996年

1996年のイタリアはミラノからベローナ、ベニス、フィレンッエ、ローマというツアー旅行でこの時も寒かった記憶がある。ミラノの飛行場の小ぶりのアルミカートが印象的でさすがミラノデザインの街と思った。ツアーだったがヴェニスで早々に離団して自分たちでフィレンッに移動してきた。その理由が自分たちが行きたい美術館とレストラン、ドーモに登るためだったようにも思う。

2002年

2002年は夫婦と友人で豪華ホテルに泊まる旅行になった。ようやくヨーロッパの冬の寒さにも慣れ零下6度の早朝に街に散歩に出た。このころから美術館に足を運ばなくなり、町全体の雰囲気を味わうようになってきた。ただ街の散歩が楽しい。レオナルドダビンチ出生地のヴィンチ村を訪れたり年始恒例となったピサの斜塔を眺めに行ったりしている。フィレンツェの街からバスに乗りフィエーゾレに行きそこからさらに登ると展望台がある、そこからフィレンツェを展望してきた。さらにバスに乗りシエナに観光に行ってきた。

2006年

2006年には夏にシエナのパリオ見物やってきた。フィレンツェで滞在してシエナに移動。この時は火山噴火により飛行遅延が慢性的で私たちの荷物も遅延してしまい遅延保険だけ加入しておらず航空会社に用品請求をしたのだった。

季節は夏でこれまでの冬とは大違い。街の中はそぞろ歩きの観光客であふれていて、日本並みの暑さにたじろいだ。

シエナにバスで移動したときは衣類は風呂敷に包んだ状態でそれも今となっては笑い話になる出来事かも知れない。パリオの街の興奮は喜びにあふれていて各コントラーダの象徴像を探しに街を散策して歩いた。シエナの街も石の道でしかも丘の街なので坂を登ると下がるという繰り返しでずいぶん歩いた。実際は小さな町でこの町の中に17に区分されたコントラーダが存在していることが不思議な位だ。人口は52,800人。

ミケランジェロ広場に歩いて散歩。フィレンツェでジョットの鐘楼に登る。

2016年

2016年10年ぶりの今回の旅行となる。フィレンツェは何処の美術館も列ができている状態は変わらず、今回の発見は、入場料に65歳以上のシニア料金があるということでレオナルドダヴィンチ博物館、捨て子養育院で利用できた。証明書の提示は求められず自己申告で販売してくれた。シニア料金のないところもあるので入場料金を支払う時に確認が必要だろう。今回観光として登った場所はミケランジェロ広場まで散歩。ジョットの鐘楼、ドーモクーポラ、シエナのドーモ付属博物館の塔。サンジャミアーノ見張り台の塔。

シエナのカンポ広場は馬場に替っていて馬の走行会が朝夕行われ、それ目当ての観光客やコントラーダの人々が広場を埋めていた。パリオの4日前からシエナ移動したのだが、ここもフィレンツェと同様観光客であふれていた。パリオに向かっての宿泊料金は、二倍三倍と跳ね上がっていく。この5日間の走行会の席は旅行代理店で販売されている。

パリオ当日の席はカンポ広場の周囲のレストランが販売していたりする。これもシエナ市が公示している料金とは異なり、販売業者の手数料が加算されコントラーダへの賛助金が加算される。そのために料金は言い値となる。

これ以外にも友人と買い物ツアーに参加したり、フィレンッエ滞在を楽しんできた。地図を片手に歩くももじろうに地図がいるの?と聞いてみたのだがどうやら自分で行きたいレストランを探すためだったようだ。